昭和52年09月18日 朝の御理解



 御理解 第80節
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」

 年寄りを大切にする、そういう心が神様の心にかなう。信心する者はよう心がけておくがよいという、これは信心がなくても同じ意味の事が言えますけれども、信心するものの年寄りの大切の仕方と、それから信心のない人達の、年寄りの大切の仕方は自ずと変わってくる。違ってこなければならない。信心させて頂く者はどこまでも敬うというね、その、中に祈りが込められておかなければならない。
 ただ年寄りを大切にする、親切にするともう、体が若いもののようにはいかない。そこに、不憫な心が起こってきて、まあ年寄りに手を貸してあげるとか年寄りをいうなら大事に大切にさせてもらうと。人間というものは弱いものをみると同情する。強いものを見ると、むしろ抵抗するような心が起こってくる。だからそういう意味で年寄りを大切にするのは敬うと言う事ではないです。
 年を取っておる人達は、それだけ世のお役にたってきたんだと、言う所から敬うのであり、大切にするのである。問題はその信心をさせて頂く者の、心がけておかなければならないことは、いつでもどんな場合でも、神様に通うものでなからなければならないと言う事。たまたま昨日研修の時にその話が出たのですけれどもね、親孝行と例えば言う事でもそうです。あちらのお嫁さんは中々行き届いてある。
 もうそれこそ子供を使うように年寄りを扱いなさる。腰をもんでやんなさったり、まあ色々と行き届いたことだと。なるほど人間がみれば行き届いたことですけれども、神様がご覧になっての行き届いたというのはそんなもんじゃない。というてまあ私が年寄りを大切にしておること、又私がなら親孝行となったかどうか知らんけれども、私の親孝行というものは、私が同じこう屋根の下に住んでおってお、月のうちに四回しか両親の部屋に行かない。月次祭の日だけ。夕方から下がってお風呂入ったりする。
 あちらでまあ両親がもうそれこそ、指折り数えて待っております。今日は親先生が来る日だと。そして一緒に食事をさせてもらいます。例えばしちゃならんと言う事ではないけれどもまあ、両親が例えば床をひとつのべるでも、自分でもう楽に床をのべさせてもろうたり、布団を上げたり下ろしたりしておる。そこに若い者がちゃんとおってからそれば見よるという事じゃないけれども、あれはとても良い年寄りの運動になることだから、いわば布団をとってやったり、あげてしてやると言う事はかえって、いけないこと良くないこと。いうならその根本精神なんです。
 というて例えば年寄りの部屋には一番涼しい、一番日当たりの良い部屋を選ばせて頂きよる。そしてあの(?)えんがついておりますから、そこの下に降りる所も皆さん御承知のように、あの、上と下は殆どまあ、何寸ぐらいしかありません。きちっとあの芝生を高くはって、いうならば下りたり上がったりがしよいように、わざわざ私が工夫してさせました。あそこだけ庭をこう(?)高くしてある(?)あの藤棚の下です。
 縁から下りる時にもうちょっとすりゃもうそこにつくように、しかもそこに、芝生をいっぱいはっております。私が、純毛のシャツを着せて頂いておるのに、父は随分長く、メリヤスのシャツでした。私が、何かあの、今何か大変素晴らしいシャツがございますよね、かあき色の。あれを私が着せて頂くようになって、初めて、父は純毛のシャツを着るようになりました。これはシャツだけの事ではありません。
 一時が万時もう衣食住がそうでした。それでいて、例えば両親は私をどう頂いておったかというと、本当に自分の子供を拝みきっておりました。内の息子は自分だけが良い着物をきて、年寄りにはこんなお粗末なものを着せておる、と言った様なものはさらさらありませんでした。その辺のところが私のいうならば、超常識とか超道徳とかもうします、超親孝行であった。
 もう父が93.母が85でしたかね、七つ違いですから、で亡くなり、半年おきに亡くなったわけですけれども、もう父でも母でももうとにかく、腰が痛かとか肩が凝るとかいうた事がございませんでした。いうならば私の親孝行が、天地の親神様に通うておるから、父がそんなに強いのです。布団のあげ下ろしりでも、それが平気で出来れる、おかげを頂いておるのです。
 私が参りますともうそれこそあの、甘な辛ながいつもいっぱい、水屋の中に入っておりました。誰かが甘いもの辛いものを持って、辛いものが好きになる人が来ますとすぐ、母が御酒ですね、御酒とか焼酎とか皆に出す。甘いものが好きな人には、すぐ甘いものを出す。もう果物からもうそれこそ、花までいつもお婆ちゃんが好きだからというて、いつも一杯花が集まっておりました。結局私が撫でたり擦ったりするのではなくて、神様が撫でたり擦ったりして下さっておると言う事が分かるでしょう。
 皆さんが年寄りを大切になされる。もう本当に腰をもんであげたり、足をさすってあげたりしよる。今日からもうそげな事は止めなさい、と言う様な意味ではさらさらないです。結構です。けれども根本の所にです、神様に通う様ないうなら敬うというか、大切にするその中身が、天地に通うような心かけで、年寄りに接しなければならないと言う事なのです。例えば車なんかで年寄りに、席を譲ったりするのは大変美しい情景です。またそうしなければなりません。
 けれどもそこに祈りがないとです、もう年寄りが若いものが、席を譲ると当たり前のような気持ちで、年寄りが感謝の心も持たずに、それが当然の事。もう今時の若い者は私が立っておったっちゃ席を譲ろうともせん、と言った様な事を年寄りが言い出す様な事では、もうその年寄りが助かっていない。助からない。年寄りだから大事にされるのは、当たり前だと。だからそういう心が増長するような、取り扱い方をするのでは年寄を大切にした事にはならんのです。私は今日は神様に通う。
 昨日研修の時に、その事を申させて頂いたのですけれども、広義の親孝行は、天地金乃神に通じる。こうぎとは広い義と書いてね。いわば広義のいうならば、年寄りを大切にするという内容でなからなければならないと言う事。だからそういう理屈を知っておるだけでは、いわば潤いがありません。年寄りを大切にすると言う事は、必ずしも撫でたり擦ったりしてあげる事だけが、年寄りを大切にすることではない。ほうからかしときゃ年寄りは自分で結構やる。
 それはかえって年寄りの、健康法としても良い事だから、というならばそういういうならば味気もない、そっけもないような唯そういう理屈が分かっておる。私のは道徳ではない超道徳だからと例えば、言う様な考え方では神様には通じません。神様に通じる年寄りの敬い方、大切の仕方というのです。そのためにはどうしてもいうなら、情緒が必要である。いうならば情操が豊かでなければならないと言う事です。勿論宗教信心から生まれてくる情緒です。または情操です。
 このことも昨日話した事ですけれども、私のあの、母の里が浮羽郡の麦生ですけれども、もう本当にもう、目が覚めて休ませてもらうまでがもう、老夫婦二人の言葉をついてでるのはもう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏もういつもこのなんまんだぶつを唱えているだけです。そして夜のお勤めともなるともう田植えであろうが、根付の時であろうが、もうどんなに遅くなろうが、もう長々とご仏壇の前に座っていわゆる、先祖を敬ういうならばお経文をあげてでしか休みませんでしたが。
 だから本当に信心の継承とか、信仰の信仰この頃御本部で宗教の情操教育と言う事がいわれますけれども、私は家庭の中でそういういうなら、明けても暮れても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という情操の中に、子供が育っていくならばもう絶対に素晴らしい情操の子供が生まれる。または情操の教育が出来る。無理に言う事はいらん必ず、子供が信心の後継ぎをしてくれる。ですからその宗教的情操と言う事が盛んに言われるが、どう言う事だろう。というて昨日研修の時に話した事でしたけれどもね。
 結局宗教的情操とは、ありがたいなあという心ではないだろうか。勿体無いなあという心ではなかろうかと。他にない。生き生きとした信心、水水しい信心をさして頂いておれば、瑞々しい南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏が出るし、水水しいいうならば教祖金光大神様、金光様が出る。そういう情操の中でいわば子供が孫が育っていく。間違いない信心の継承が出来るだろうと言う事を同時に今日のご理解で言うとそういう情操から生まれてくる今日のね、超道徳をそれに併用していく。
 今日のご理解は人間に親切を施すと、これは広いそれこそ、年寄りを大切にするという年寄りだけの事ではないですね。相手にそれが本当に通い通じると言う事は神様に通じる、神様に通うという事なんです。普通一般に言う道徳の思想が忠義とか、又は親孝行とかいわゆる年寄りを敬うと言う様な、言わば教えとしてきましたけれども、それはね結局ただ年寄りを大事にすれば、年寄りがただ喜ぶというだけであって、神様に通う広義のものではない。
 広義のもの広義の意味においての、親孝行という年寄りを大切にするというのは、そういう信心を踏まえそういう、情操が育ってきてそういう情緒の中に年寄りを大切にするという事になると年寄りにも通じれば、又は天地にも通じる神様にも通じると言う事になります。今日は皆さんに広義の親孝行、広義の年寄りを大切にすると言う事を聞いて頂いた。合楽で信心の稽古をなさる方達はそういう広義、広い意味深い意味合いにおいての信心。そこに自ずと違った教導というか御教えと言う事になってくる。
 だからおかげが愈々深い広いものになってくる。いやおかげが絶対というほど間違いがないものになってくる。信心するものはよう心がけておくがよい。年寄りを大切にするという事でも、ただ、人間だけにしか通わない大切のし方ではつまらん。それにはやはり自分自身の心の中に、有り難い勿体無いといういうならば、情操が豊かに育っていかなければならない。そこに私はそこから年寄りを大切にするという事が、いわゆる心掛けとして頂けてくる。そういう心が神様に通うというのである。
 神様に通うと言う事は交流するという手立てなのです。今朝私がいつもここの外に出て、ここの天地の遥拝をさせて頂く時に、その合掌させてもらうて、御祈念をさせてもらいよりましたら、向こうのほうから白い女の方の手で、また私を拝み返しておるというご心眼を頂きました。もう私は朝のあのひととき、ここでご祈念させてもらう時に天地の御恩恵の中でもこの空気を吸わせて頂いて御祈念をしておると言う事が心のそこからありがたいんです。はあ、生きておるけん空気を吸うたら当たり前の事ね。
 その当たり前の事の中にいうならば、本当の尊い有り難いというものが、感じられるようになる。唯自分の思うようになった事だけが、有り難いというて神様にお礼を言うと言うのではなくて、昨日は合楽会でしたが、もう本当にたまがるようなおかげを頂いて、ちょうど、その会があっておる最中にお礼のお届けがあったりまたは、お礼参拝をしてきた方達がありました。森のなんとかさんでしたかね、西岡先生。名前はなんちいいよったの、夕べお礼に出てきたでしょう。夫婦で境さん。
 もう本当にこげんおそうからそれでも、ちょっとお礼に出ていかなければおれんじゃないかというてお礼に出てきて、ちょうどその時に私の話が本当に、例えば取次ぎ者にこげな責任を感じさせながら、お取次ぎを願うておって、そしておかげを頂いておっても、もうそれこそお礼にも出てこん人がある。これはもう本当に困った事だなという話をちょうどしておるところでした。
 親先生があなたがああいいなさったから、私はこうしましたと言う事が見事におかげになったのですから。いいやそげな事なかですが、あなたが右と言いよるけれども左が本当ですよというて、左のほうをとったら、やはりおかげになったという時です。それが反対になったら、私はその人から責められなければならないほどしの、責任を感じるほどしの事柄を、お取次ぎをさせて頂いておるのにも拘らず、お礼にも出てこん。まあ今度参った時についでに、もう参った時には忘れておるかもしれません。
 ひよっとしてこちらから聞いたらあれは、おかげ頂きましたと言う様な事くらいかもしれません。もうそれではね、次のおかげが頂かれんて。いうなら境さんの場合信心が高尚であるともう、おかげを頂かれる事はもう、もう実に的確である。しかもびっくりするようなおかげである。ですからお礼参りをしなければおられない、そこに次のおかげが頂けれる、もとが出来るのです。やっぱり。
 それからあちらの大分の方からでしたけれども、とにかくあの今主人がもうお腹がせいて、もう転げまわって苦しんでいると。だからお願いしますというて、病院に連れていって、病院にいくまでにすきっとよくなって、折角病院にきたけんで診てもらうだけ診てもろうて、そして帰って来て、おかげで今テレビどんみよりますというてまた、それはお礼の電話でしたけれども、丁度そう言う事がある。そういうおかげならばいうならば、普通ならば夜も夜中もない、お礼にでもでなければおられない。
 真っ暗としておりますから、もう帰ろうかと思うて外まで出ましたけれども、やっぱりどこにかやっぱおんなさろうというてぐりぐり回って、昨日私の控えで人数が少なかったから来ておりましたから、それからあのみえてお礼のお届けがありました。だからそういう、ならあのとって付けたような、おかげを頂くと言う事時には、おかげを頂いて有り難いという人は、反対になるとおかげを、親先生が、頂かせきらじゃったといういい方をするです。必ず。
 だからそういうおかげではなくて、私が申しますとにかくこの空気の一筋一筋がです、もう本当に有り難くて勿体無い。例えば私が朝の三時半の御祈念の時にそれを感じさせて頂いてお礼心にお礼の心一杯で、天地に対する御祈念をさせて頂いておりましたら、向こうの方から、女の白い女の方の手で、やはり私を合掌しておる姿を頂いた。いわゆる合楽の姿ですこれが。私が天地を拝んでおる。天地もまた私を拝み返して下さっておる。なぜ女の手でやっただろうかと、私は思いましたが、男の方ならば女の手。
 だから女の方がもし、私と同じ御祈念をしておったならば、男の手で合掌されただろうと思います。交流すると言う事は交流する。そこから生みなされるもの。私と天地が交流する。そこから生みなされるおかげが、現在の合楽のごひれいです。だから御祈念1つでもする事いうことでもです、天地に通う、天地に通じる所の言うならば信心というものは、人間の考えで人間が作った、道徳的なものでは通わないと言う事。
 人間同志のいわば触れ合いにおいてです、それは素晴らしい雰囲気、が生まれるかもしれませんよね。道徳的にお互いが、こう幸せになり合うていこうというのは。けれども天地を動かすと言う事にはなりません。だからもし信薄き人が見たならば不道徳に見えたり非常識に見えたり、するかもしれません。けれどもその非常識がです、私以前まあ随分当時の椛目は評判が悪かったですから、もうとにかく椛目の大坪というもうあれは、人間じゃないち。もう人非人だと言う様な悪口を聞いた事です。
 もう残念ですよね。私の心の中にはこんなに思うておるのにも関わらず、私をその人非人扱いをする。残念ですから神様にその事をお届けさせて頂きよりましたら、お前が言う通りにお前は人非人だと神様が仰る。人非人とはもう人であって、人であらずと言う事だぞと、人間いかに落ちていくというのも、人非人ばってん人間の姿形をしておるけれども、心は神様の方へ一歩一歩近付いていきよる姿が、その人非人だぞという、ご理解を頂いた事がございます。
 だから人非人だと言われても本当に自分がそれこそ、畜生の様な生き方をしておるのも人非人だけれども、人間の面をかぶっておるだけで、いうならば人面獣心というのも人非人だけれども、人間の姿はしておるけれどもあの人こそ、生神様だ生仏様だと言う様に神様に近付いていきよる、やっぱ人であって人であらずと言う事になる。そういう意味での道徳であり、だから言うならば超道徳であり超常識なんだ。でなからなければ天地に通じるという広義の親孝行でなからなければ、天地には通わないと。
 だからここの所の理屈が分ったからというて、ならば親に大事にしておった人がもう、広義でなからなかればならんからというて、もうすぱっと止めたと言った様な事ではね、いわゆる情緒がない情操がない。有り難い勿体無いという心がない、それでもしそれをしたら本当に困った結果になります。それこそ親が家の子供が、本当に親不孝だというて嘆くでしょう。だからこれは皆さんがご覧になって、ご承知であるように、私が両親を見立てさせて頂いて、何十年間の私の親に対するあり方というものをです。
 私が純毛のシャツを着ておっても、父はメリヤスのシャツであったと。それでいても父は1つも不平不足を言わなかった、もうそれこそ感謝でいっぱいであった。私がもっと白いシャツが着れると思うたら、始めて父が純毛のシャツを、神様から許されて着ておるという感じであった。それでいて本当にあの、子供が親達が拝みきっておった。勿論私も拝みきっておる。そういう素晴らしい宗教的情操というものが、もう一杯ですから不平不足が出ようがない。
 そういう様子を例えば天地の親神様がご覧になった時にです、神様が喜んで下さる。神様に通う親孝行。神様に通う年寄りを敬うと言う事。それにはねやはり情緒がいるんだ。情操が愈々信心によってきたわれた、有り難い勿体無いが心の中になからなければならないのだと。そうあらねばならないそうありたいと何時も心掛けておくと言う事が信心だと言う事を今日は聞いて頂いたですね。                          どうぞ。